罰則条項 表面を撫でるような風が吹き抜ける度、若草の香りに包まれる。ついぞ嗅いだこともないような、爽やかな香り。空は青く、足元は腰の辺りまで埋まりそうな、先の尖った細い草で覆われていた。 それが、風向きが変わる度に前後左右に揺れ、様々な緑色にその場所を染めていく。 緑しか見えない野原の中で、唯一金色が揺れた。 響也くん それなりの距離があり、本当なら霧人かと迷うものだろうが、理由などなくとも、成歩堂には響也だとわかった。 何処へ向かうのか、道などない場所をゆっくりと歩いている。 普段の服装でなく、白いシャツとジーンズの軽装。それも、成歩堂は初めて目にしている。因縁めいた二人の関係にも係わらず、この七年の間、成歩堂と響也の間に接点はない。互いに、互いを意識しなければならない立ち位置にはあった。 だが、避けるように邂逅の場所など求めなかった。 すっと、成歩堂は右手を上げる。 「おおい、響也くん」 引き留めようとは、思わなかったにも係わらず。名を呼ぶ。ひらひらと振った手の先で、響也が振り向くのが見えた。 そうして、成歩堂を見た響也が笑った。青空が一気に色を増し、草原の緑に、金の髪が舞う。陽光を受けて輝く金に、目を奪われた。 ざっと草を踏む締める音。 駆け寄ってきた勢いのまま、響也は成歩堂の首根っこにかじりついてくる。 振り回されそうになって青年の背中に腕を回すと、柔らかな笑顔が、笑い声が直ぐ側に感じた。存在を確かめるように掌を滑らせれば、暖かな体温は服の上からでもはっきりと成歩堂の肌に触れさせた。 「…っ…。」 目を開けると、天井は代わり映えのしない薄汚い我が家の天井だった。 投げ出していた腕を、ゆるゆると持ち上げて成歩堂は眉間を指先で摘む。んん〜〜と強く瞼を閉じて開けて、やはり其処は変わらなかった。 薄っぺらい座布団から起きあがり、放りだしていた帽子に手を伸ばす。 「夢…か。」 そこにしか辿り着かない結論を呟いてから、乾いた喉を潤す為に台所へ向かった。 喉を鳴らして飲んだ水道水のお陰で、少しだけ思考が戻ってくる。 あれは確かに夢だ。彼があんなにも無防備に自分に接するはずがない。こうして、直接肌に触れてた後でさえ、響也の気持ちなどわかりもしない。 いや、そもそも。成り行きとはいえ、彼とセックスをする理由が、自分自身の中に思い当たらなかった。 こういう場合は、相手に理由を押し付けるのが成歩堂のやり方だ。相手が誘って来たからついフラフラと、と言いたい所だが、今回に限り『欲しいか?』と聞いたのは自分だ。 何となく、後味の悪いセックスをしてしまったものだと思い、どこがどう、後味が悪いのかわからず、また思考が止まる。 抱き心地は悪く無かった。流石に国民的スター様らしく、苦痛に眉をきつく寄せる表情ですら蠱惑的だったし、具合も良かった。初めてだと言った響也の言葉も真実だったらしく、初々しい反応は、少なくとも成歩堂を不愉快な気分にはさせなかった。 なら、どうして? 帽子の中に入れていた携帯に王泥喜の名前が繰り返し入っているのを思い出して、ただ、夢見が悪かったのだと言い聞かせ、成歩堂は思考を打ち切った。 「あ、成歩堂さん」 雑多な事務所の中で、唯一綺麗なテーブルを拭いていた王泥喜は、成歩堂の姿を見て腰を上げた。隅には茶碗が二つ。茶封筒がその横に置いてある。 誰か依頼人でも来たのだろうかと、成歩堂は王泥喜の正面にあるソファーに座った。 「何度か連絡くれたみたいだけど?」 「ええ、さっきまで牙琉検事が来てたんですよ。」 「響也、くん?」 こくりと頷き、王泥喜は広く晒された額に大きな皺を刻む。不審そうに眉が潜められた。 「成歩堂さん、牙琉検事に何したんですか?」 「ナニ…。」 ポツリと呟き、王泥喜の怪訝そうな表情は益々酷くなる。 「いや、何で?」 ええと頷き、王泥喜は成歩堂に茶封筒を差し出して来た。封を切って中を覗くと『8,240円』消費税込みのピッタリ価格に成歩堂も見覚えがあった。響也が払うと言っていたホテルの代金。 慌てふためいてホテルの部屋を飛び出した響也の姿を思い出す。 セックスをして、霰のない姿を晒したのにも係わらず、触れただけの接吻で動揺していた響也の姿は滑稽だ。 「貴方にお金を借りたから渡しといて欲しいって。」 そして、王泥喜は首を捻る。 「成歩堂さんが牙琉検事にお金を借りる事があっても、反対は有り得ないと思っていたんですけど。」 「王泥喜くんは面白い事をいうねぇ。牙琉検事が僕にお金を貸してくれると思うのかい?」 しかし、王泥喜は素直に肯定する。じっと見ていると、成歩堂が根拠を知りたいとわかったのだろう。あのですね。と言葉を続けた。 「本人は気付いてないみたいですけど、七年前の裁判の事とか牙琉検事は相当気にしてるみたいですから。そういう弱味に付け込むの、成歩堂さんは上手ですし。」 …牙琉の事務所で鍛えられたのか、歯に衣着せぬ毒舌ぶりだ。成歩堂は改めて感心して、目の前の青年を眺める。彼は右の手で腕輪を弄いながら、考え事をしているようだった。 「腕輪が教えてくれたのかい?」 「まぁそんなところですけど。」 言葉を止めて、赤い弁護士は困ったように笑う。 「…腕輪に頼らなくてもわかりますよ。それなりに、つき合いがあれば…あ、そうだ。渡したら連絡してくれって言われてたんだ。」 ごそごそとズボンから携帯を取り出す。簡易な操作でかかる電話は、頻繁にやり取りをしている証拠なのだろう。数回のコールの後、携帯は繋がったようだった。 「…あ、俺です。王泥喜です。先程は、ええ…」 一方的に聞かされる会話に置いていかれた気分になる。ぼぉっと眺めていると、はいと携帯を顔面に突き出された。画面に牙琉検事の名と携帯番号。咄嗟にその数字を頭に入れ、受け取って耳に当てた。 「…響也くん?」 呼びかけても直ぐに答えが返らなかった。放送事故でも起こりそうな長い沈黙の後、不機嫌そうな声が返る。 『…どうも…』 「お金、わざわざ済まなかったね。でも追加してくれなくても、お釣りで充分だったんだけど?」 あっと小さく声が上がり、再び沈黙。 聞こえてくるチャカチャカした音が、茜や王泥喜から噂に聞く仕事中にでも流す喧しい曲なんだろうか。耳を澄ましても、成歩堂には、曲名はわからない。 『……だっ…だったら、か、返せ』 音に埋もれてしまいそうなほど小さな声。告げてくる内容も、かなりみみっちいが、こちらを見下した態度をとって来ないのが彼らしい可愛らしさなのだろう。 「それも勿体ないなぁ。も一回きっちり使ってしまおうよ、後腐れ無く。」 今度は、沈黙ではなく完全に絶句の状態になっているのがわかる。 『ふ、ふざけるな!!! 絶対取り返しに行くからな! その、逃げるなよ、成歩堂!!』 「逢いに来てくれるって。」 うん、わかったと返事をして強制的に通話を断ち、王泥喜に手渡す。 不審気に顔を歪めている王泥喜は、成歩堂にからかうなと注意してくると思ったが、思いもよらない言葉を口にした。 「成歩堂さんも、牙琉検事と話す時に緊張するんですね。」 その言葉に、成歩堂も一瞬虚を突かれる。 みぬきの力だろうから、それに対して否を告げる気にはなれなかった。けれども、自分が緊張する理由がよくわからない。 ふいに浮かんだ夢の情景に、ドクリと胸が高く鳴った。 「へぇ、そう? 何でだと思う?」 「いや、俺に聞かれても困りますから。」 王泥喜は今度は呆れた風に告げて、やりかけの雑用に戻る。そして、もう一度顔を上げた。 「茶菓子でも出しますか?」 「うちにそんなゆとりあるの?」 成歩堂は応えてから、気がつき、テーブル上の茶封筒を王泥喜と凝視した。 content/ next |